ひとり遊び

全てただの独り言です。

何かの奴隷だった人たちのこと。

蘭たんの龍が如く7実況、終わってしまった…。

いつも動画を再生する時、part数が目に入っていないので全く把握してなかったのですが全部で50part近くいってたんですね…毎日投稿を続けられる蘭たんは本当にすごい。

 

さて、私は龍が如くに今までほぼ触れてこなかった人間である(蘭たんのジャッジアイズは見ていたが本当にそれだけ)。ナンバリングされた龍が如くというゲームを自分でプレイしたことがないのはもちろん、実況でも見たことがなかった。キャラクターを何人か知っている程度であとの知識といえば「なんかヤのつく人達がかっこよく戦ったりするんやろなぁ…」ぐらい。正直蘭たんの龍が如くpart1が上がった時も「次は龍が如くやるんか〜」ぐらいの平坦な感情しかなかった。まぁ蘭たんの実況だし面白そうだし見るかぐらいの。そんな人間が最終章まで見終わった後にこうやって感想を書き殴ろうとしてるんですから、龍が如く7って本当に良いゲームだったんだなと改めて実感しています。

蘭たんがやってくれなかったらきっとこのゲームに触れる機会も、こんな重苦しい泥のような、でもどこかあたたかくて泣きたくなるような感情を抱くこともなかったと思うので、本当に実況してくれてありがとう、という気持ち。

 

 

本題に入るのに少し時間がかかってしまったけれど、ストーリーを見た感想などをつらつら書いていきたいなと思う。(界隈にはもう溢れるほど感想や考察などが上げられていると思うので〇〇さんと同じこと言ってるやんコイツ…となることもあるかもですがそこはご了承ください…)

 

 龍が如く7のストーリー全体を通して見ると「愛」だったり「救い」という意味合いの言葉がとても似合うなと思う。それも主人公が春日一番という男だったからだろうなと。春日は仲間がたとえ自分を裏切るようなことをしたって「それでもお前は俺の仲間だ」と愛を持って受け止めた。若がどんな酷いことをしたって「それでもあなたは俺にとって大切な人だ」と必死に救おうとした。勇者って魔王を倒すだけじゃなく救う人のことを言うんじゃないかと、春日を見ているとそういう考えに至ることができた。本当に素晴らしい主人公だと思う。100点満点のいい奴すぎて私には少し眩しかった。

 

 

 そんな100点満点の光があればその傍には必ず影ができてしまう。

 

 

最終回を見終わった後、ずっと若と久米さんのことを考えてぐるぐるしていた。

根っからの悪人ならまだしも(そんな人は滅多にいない)、過去に経験したことや境遇、立場などのせいで悪人にならざるを得なかった、その選択肢しか知らなかった人の死を因果応報で片付けてしまうことにかなり抵抗があるタイプの人間なので、若の最期や蘭たんの感想には色々と思うところがあったりもするのだけれど、全部その通りだし、若は裁かれるべき人間かと聞かれたらその問いにはそうだと答えることしかできないけれど、大晦日の寒い夜にロッカーに捨てられおまけに鍵までかけられてしまった小さな命のこと、歩くこともできず誰にも縋れず街中を這って辿り着いた先にゴミの貼紙を見た青年のことを思うと、私は何も言えなくなってしまう。この重い感情は私1人で片付けていくしかないのだと思っている。

若が銃をロッカーにしまった時の蘭たんの「見たくないものはロッカーの中に」って言葉、本当にすごいと思ったのだけれど、その直後にそんなことは許さないと言うように久米さんがあの鋭く光るナイフで若のことを刺しに来たシーンはとても衝撃を受けた(無意識にアッという声が出た)。あの瞬間に若は裁かれてしまったのだと思う。いくら春日が優しくても、ここからやり直せると言っても、これまでしてきたことはやはり許されることではなかったのだ。苦しいね。

 

そして若を刺してしまった久米さんのことを、私は責めることができない。これは完全に私の見解だけれど、あの人の中身はきっと空っぽで自分でそれに気づいてしまうのが怖くてずっと見ないふりをしていたのだろうなと思う。ブリーチジャパンに所属してその組織で用意されたスローガンや考えを叫び信じることで、自分自身が確立されたような、とてもいい人間になったような錯覚を起こしてしまった。でも蓋を開けてみれば久米さん自身には意見や志なんてなかった。それが若の悪事が世に出たことで分かってしまった。今までこれが自分なのだと信じてやまなかったものが音を立てて崩れ去ってしまった。自分は結局空っぽな何もない人間なのだと気づいてしまった。その行き場のない感情がナイフを握らせ、若の元に向かわせてしまったのだろう。久米さんは良くも悪くも1番”普通の人”だったなと思う。

 

話の脈絡が乱れるが、私は進撃の巨人のファンだ。若や久米さんのことを考えると、進撃作中であるキャラクターが言った「みんな何かに酔っ払ってねぇとやってらんなかったんだな…みんな…何かの奴隷だった…」という言葉が思い浮かぶ。人間は辛い時ほど何かに酔っ払っている。それは人それぞれで、お酒だったり恋人だったり夢だったり権力だったりする。それに溺れすぎてしまって、奴隷のようになってしまう人もいる。若も久米さんもそういった類の人たちだったのかもしれない。きっと春日や仲間たちも何かに酔っ払っていた。でも、自分をしっかりと持っていたり、奴隷のようになってしまう前にすぐ掬い上げてくれる存在がいた。でも若や久米さんのすぐ傍にはいなかった。もしかしたら沢城のカシラもそうかもしれない。特に若に関しては、得た権力や自分の復讐心の奴隷になってしまって、春日が言っていたように「自分でも止まり方が分からなくなっていた」のだろうと思う。でも若には春日という最後まで諦めずに止めようとしてくれた人がいてよかったね。そういう存在に最後まで出会うことができなかった人たちは…ね…。

 

最終回の若と足立さん、「復讐」するという目的は同じだったのにこんなにも最後は違う印象になるのか…とも思った。兎にも角にも若は人を殺しすぎたね……。

どうしようもないおじさんのくせにやっぱり最後は足立さんはカッコいいおじさんでくやし〜ってなった。カッケーよ足立。

 

最後、ナンバちゃんが春日にDNA鑑定してもらえよと言って春日が「いやだ」と言った瞬間、嬉しかったのと同時にひどく安堵してしまった。春日に限ってそれは絶対ないことだろうけど、血の繋がりが証明されたら育ててくれた父親より実の父親のほうを意識の中で大事にしてしまうのではないかと思っていたから。はっきりと、俺の父親は2人だ。どちらも大事だから。と言ってくれて、本当に最後の最後まで大好きが詰まった男だなと思った。トッポも最後までチョコたっぷりだもんね…(?)

親っさんが春日のことを本当の息子だと知らずに、若が沢城のカシラが本当の父親だということを知らずに亡くなってしまったのも、これでよかったのかもなと思う。血の繋がりがどうでも、荒川親子は間違いなく存在していたのだ。それで十分だと思った。

 

 

私は若の最期をまだ受け止めきれてないけど、もし若が生きていて罪の償いが始まったとしても、沢城のカシラが終身刑だったということを考慮すると、きっと若も最期は1人で死刑台に上がらなければならなかったかもしれない。それを考えると、何があっても自分のことを兄弟だと言ってくれたあたたかい春日の腕の中で逝けたのは若にとっていちばん幸せな最期だったのかな、と自分の中で必死に整理をつけようとしている。

 

何人かの登場人物だけに着目して書き殴ってしまったけれど、ここに書いてない登場人物全員もちろん魅力的で大好きだった。親っさんと星野会長大好きだったんだけど…なんで死んでしまったん……なめたらあかん許さへん…。

 

 

最後に。蘭たんが実況してくれたということについての感想を。

他のゲーム実況もだけど、こういうシリアスな展開があるゲームってプレイする人はもちろん、実況を見ている視聴者も登場人物の思いがわからなかったり、何か思ったことがあってもそれを上手く言葉にすることができなかったりすることがあると思っていて。そんな時、蘭たんがふと発してくれた言葉で、自分の中でストンと理解できたり自分の中で上手く感情を整理することができたりした。そんな経験をするたびに、ゲーム実況っていいなと思う。

あと、定期的にギャグパート挟んでくれたのもよかった。やっぱり実況動画見てガハガハ笑ってる時がいちばん好きな時間かもしれないです。私。

冒頭でも言ったかもしれないけれど、改めて蘭たんの実況と共に春日たちの旅路を見ることができてよかった。

 

蘭たんが見届けた後の世界でも、春日とその仲間たちが幸せでいられるように祈っています。

 

 龍が如く7、本当に良いゲームだったなぁ。

世界の中の小さな場所だけあればいい

待ちに待った「あつまれどうぶつの森」をプレイした。

 

どうぶつの森、というゲームにおそらくそこらへんの人よりかは大きな感情を寄せてしまっている私は、プレイしながらせり上がってくる感動とか懐古とか、そういう類のものに耐えられなかった。はぁ…どうぶつの森って…いいゲームだなぁ…。

 

 

私とどうぶつの森の出会いは私が小学生の頃に遡る。

私は小学1、2年生の頃、これといって友達がいたという記憶があまりない。なんとなく覚えているのは、お昼休みにみんながドッチボールや鬼ごっこなどをして遊んでいるのを横目に、校舎内や校庭などをひたすら1人で歩き回ったことだ。気に入った場所を見つけたらそこに座り、約40分の間ひたすらぼーっとするか自由帳に絵を描いていた。人より少しは絵を描くのが得意だったので、時々通りかかった同じクラスの子に「すごい!絵上手だね!」などと褒められることはあったものの、それに対して私はか細い声で「ありがとう」などと返すだけ。大抵それだけで終わっていた。学校社会において、人と活発に言葉を交わすコミュニケーション能力が多少はないと友達という枠組みに入ることは難しいらしい、と学んだ。

 

そんな日々の中で、私はずっとぼんやりと「どこかへ行きたいな」と思っていた。「どこか」とは別に遠くへ行きたいとか、外国に行ってみたいとかそういうニュアンスのどこかではなく、自分ひとりだけが知っているような場所に行きたいような、なんとなく自分でない人の人生を歩んでみたいような、そんなニュアンスの「どこか」だった。

 

そんなこんなで私は小学4年生になり、そんなこんなでそれなりに友達もできていた。そんな中でも、ふと気がつくと私はずっと「どこか」に行きたいと思っていた。

ある日友達が小さなゲーム機を手にしているのを見て、私は親にそのゲーム機をねだってみた。「みんな持ってるから…」とかいうお決まり文句を語りながら。

晴れてゲーム機を買ってもらえることになった私はウキウキでゲーム機を選んだ。今でも忘れない、DS Liteのクリスタルホワイト。今ではもう上画面が壊れてしまって映らない、私が初めて買ったゲーム機。そして当然、ゲーム機だけではゲームはできないから…と私が手に取ったソフトが「おいでよどうぶつの森」だった。あの時、このゲームソフトを選んでおいてよかった、と本当に思う。

 

 

 

私が人生で初めて買ったゲームが「どうぶつの森」だった。

 

 

 

プレイしてみて驚いた。どうぶつの森は、私が今までずっと行きたかった「どこか」に連れて行ってくれるものだった。画面の中の世界は私だけが知っているもので、別の姿の私が別の人生を送っている。すごい。たのしい。ゲームってすごい。そう思わせてくれるゲームとの出会いだった。

それからはこれでもかというほどやり込んだ。1つ目の村でやることがなくなってしまったので(家のローン完済、魚虫図鑑コンプ、金の道具全揃え、博物館寄贈コンプ等)、もう2回ほどデータを全消しして最初からやり直し、再びやることがなくなってしまうまで遊んだ。擦り切れるほど遊ぶとはこういうことか、と思った。

おいでよどうぶつの森」は今でも私の1番大好きなゲームで、今の私を構成する大切な一部になっている。

 

初めてゲームを買ってもらった日から10年以上経った今でも、私は変わらずゲームをやっている。というか最近になってまたやり始めた、の方が正しいか。完全に好きな人たちの影響だけれど。

 

 

相も変わらず、ずっと「どこか」に行きたくてゲームをやっている。「どこにも行かずにどこかへ行ける」のでやっぱりゲームって、いいな。と思う。

 

 

最近、「わた〜しのこ〜とはほっといて♪︎」というフレーズがずっと頭の中を駆け巡っていて、何の歌だったっけと調べてみたら、かもめ児童合唱団の「私の世界」という歌だった。確か私が中学生ぐらいの頃に放送されていた「泣くな、はらちゃん」というドラマの挿入歌だった。ドラマの内容はあまりよく思い出せないけれど、いいドラマだったなということはぼんやりと記憶している。

 

「世界中の敵に降参さ 戦う意思はない

 世界中の人の幸せを祈ります

 世界の誰の邪魔もしません 静かにしてます

 世界の中の小さな場所さえ あればいい

 おかしいですか人はそれぞれ 

    違うでしょ?でしょでしょ?

 だからお願い かかわらないで 

    そっとしといてくださいな

 だからお願い かかわらないで 

    私のことはほっといて」

 

この頃はずっとこの曲を聴いている。「世界の中の小さな場所さえあればいい」という歌詞が最近の自分のスタンスに合っていてとても好きだ、と思う。

 

ここ一ヶ月程、何をしていても責められているような気がして、何が苦しくて悲しいのか分からないままに涙が出てきたり1日中動けなかったりして、とても気分が落ち込んでいた。あつ森がプレイできてからは随分とマシになった気がする。画面の中の小さな世界で、私はゆるやかに息ができている。

大きな世界に見つけてもらえなくても、自分のための小さな場所さえあればそれでいいな。そう思える。

 

 

 

私の手の平の中に、小さな居場所がある。それだけで救われている。

 

 

 

 

 

ミッドサマーのはなし。(ネタバレ有)

ミッドサマー、見ました。

 

鑑賞直後の素直な感想としては「最悪」だった。正直これを書いてる時も色々思い出して鬱々としてくるのでやめたいんだけど、吐き出さずにいてもどのみち三日三晩ほど引きずるので書くことにした。あとで消すかもしれないけど。

 

映画を見てこんな見なきゃよかったくらいの気持ちになるのが初めてすぎてとても戸惑っているのだけど、どうしてそう感じたのか冷静になって考えてみた。

 

 

グロ要素たっぷりあるのは分かってたしその場面自体は切り抜けられたのに(結構キツかったけど)、何故こんなに嫌悪感のような怒りのような気持ちが残ってるんだろう。たぶん私は、何の意味も持たずに人がひたすら殺されていくというのがとても許せなかったのだと思う。あのホルガ村という空間で、あのカルト集団の人たちにとっては意味がありありの大ありくいだったかもしれんけど私には作中の死は全部無意味だったんや............意味とか意義とか理由とかミリもないじゃんあんなもん........あんのか...そうか.....

 

個人的にはだけどエドワード・ゴーリーの「ギャシュリークラムのちびっ子たち」を読んだ時と同じようなものを感じた。あの絵本読んでて苦痛を感じるタイプの人はミッドサマー見ないでほしいと思う。切実に。私だよ。

 

人が山ほど死ぬ映画や作品は普通に見たことはあるし、意味のない死なんていろんな作中に嫌というほど転がってるだろうけど、あの狂った環境でその狂った人たちのための唐突すぎる死を大量に見せられたのが本当に駄目だったのだろうな........分かってたよ、分かってたんだけどもここまでとは...くそ〜〜〜〜〜〜

 自分たちの目的達成または理想のために見ず知らずの人を笑顔で殺せるホルガ村の人たちやばすぎるよ本当に。宗教こわい。

 

 

一番キツかったというか複雑な気持ちになってしまったのが終わり際の5分~10分間くらいの展開。

生贄ガチャからの(元)彼氏選んでからの燃やして主人公がニコ〜ってなるあの時間がとてつもなくキツかった。エンドロール見てる時自分でも全く分からないけど怒りで涙が出そうだった。主人公があの選択をしてしまったのが何だか悔しくてたまらなかった。家族のこともあったしひたすらに辛かったんだろう、恋人にちゃんと受け入れてもらえていない不安と寂しさ、不信感の類からもう解放されたかったのだろうというのは十分に理解していたし、性行為という決定的なものを見てしまったからその選択をするのだろうとは分かっていたのだけど、主人公が実際にその選択をしたのを見て私は”爽快なエンド”だとは思えなかった。そうしちゃうのか...という感じ。クリスチャンが心の底からクズ野郎だと思えなかっただけに.........

 

ほんとにこれなんだよ。

確かに序盤からもう主人公のダニーと本当は別れたい雰囲気出してたし友人の論文テーマを横取りしたのはクソだと思う。(論文に関してはほんとにクソ)

でもダニーの彼氏という部分で見れば、所々の場面でちゃんとダニーに寄り添おうと努力してるようには見えたんだよなあ。まあ別れを切り出す勇気がなかったのもあるし自分の体裁をひたすら守ろうとしていたのかもしれないけど。多分そうなんだろうな。

 

クリスチャンがダニーにバースデーケーキを渡すシーン、ライターがなかなかつかなくてちゃんと蝋燭に火がつくまで何回もライターをカチカチするクリスチャンの行動に少しの愛情を見てしまったのも私がクリスチャンのことを恨めなかった要因だと思う。

ほんとに彼女のことをどうでもいいと思っていたら途中で火つかないからまあいっかって諦めませんか?ただ単に演者さんの性格かな、分からん。

 

クリスチャンはなんだか終始つらそうというか生き辛そうだなと思っていたし(主人公のつらさには相当しないだろうけど)、人間臭さを感じていいキャラだなと思っていただけにあのラストはズーンと沈んでしまった。他の殺された人はもちろん彼にだって人生があったんだよなあ..............。とりあえず人の死をエンタメというか作品の中の一つの要素として見れないのが駄目だった。 激重な捉え方をしてしまうのでやはり私はこの映画を見るべきではなかったとは思う。友人と何か喋りながらだったら確実にまだマシだったなとは思っている。映画館という逃げも喋れもしない空間であのストーリー見せられるのほんとツラだったなあ。自分で見ることを選択したので後悔はないんですが........嘘 、ちょっとだけある。

 

 

とにかく映画を見終わった後にこんなに怒りと嫌悪感を抱くという経験がないので死ぬほどびっくりしたんだけど、多分アリ・アスター監督と盛大に解釈違いを起こしたんだろうね....正直監督の他の作品見れるか分からないよ...しばらくいいかな...

 

面白そ〜って好奇心でミッドサマーをこれから見ようとしている人たち、友人各位に一言注意喚起をしてあげたいなという気持ちでいっぱいです。私からはおすすめはできない。私は多分二度とミッドサマー見れないと思う。

 

 

 

..........ドラえもんの映画見たいな。